開催案内

詳細資料(PDF)

こちらをご確認くださいませ。

日時

2014年11月20日(木) 14:00~17:40 (13:30 受付開始)

場所

一橋大学 一橋講堂
所在地:東京都千代田区一ッ橋2-1-1
アクセス・地図案内

参加費

無料

詳細

グローバル化が進み日々変容する知識基盤社会においては、高度な教養を備えた柔軟で適応力に富む人材が求められると言われます。近年、英国をはじめ海外有数の大学が高度なアーツとサイエンス教育に注力しているのはそのためです。
  今、企業や社会は大学に対してどのような教育を期待しているのでしょうか。海外の大学は教育の国際化と高化を推し進める上で、どのような目標をかかげ、どのような具体的実践を講じているのでしょうか。
  日本の財界と芸術界のトップを迎え、またアーツとサイエンス教育で先端を行く海外有力大学の取組代表者を講師として、グローバル化時代に求められる人材像を明らかにし、社会の信頼に応える大学教育のあり方を探ります。

プログラム

司会:松塚ゆかり (一橋大学森有礼高等教育国際流動化センター教授・副センター長)

【挨拶】
山内 進 (一橋大学長)
14:00~14:10

【第1講演】
北山 禎介 (三井住友銀行会長)
「企業が求めるグローバル人材と教育への期待」
14:10~14:40

【第2講演】
青木 保 (国立新美術館館長)
「グローバル化の中の大学と文化」
14:40~15:10

?? 休憩 ??
15:10~15:20

【第3講演】
Frances Cairncross (Rector Emeritus, Exeter College, Oxford University)
「国際社会を生きる若者にとって有効な教育とは:世界の大学が直面する試練」
15:20~15:50

【第4講演】
Carl Gombrich (Director, Arts and Sciences Programme, University College London)
「複雑化する国際社会における『自由教育』:解放への挑戦」
15:50~16:20

?? 休憩 ??
16:20~16:30

【パネル討論】
司会 足羽與志子(一橋大学社会学研究科教授)
パネリスト
北山 禎介, 青木 保, Frances Cairncross, Carl Gombrich, 井上 間従文(一橋大学言語社会研究科准教授),Gyorgy Novaky(Uppsala University・一橋大学森有礼高等教育国際流動化センター教授)
16:30~17:40

シンポジウムの風景・発表資料

発表資料(pdf)

Frances先生発表資料
Gombrich先生発表用資料

シンポジウムの報告

会場の意見について

シンポジウム内でお配りしたアンケートに86人の参加者の方からご回答をいただきました。
 シンポジウムの構成に関して、登壇者の組合せが良かったとの意見が寄せられています。シンポジウムの内容に関して、様々な立場の講演者の発表により、テーマについて多角的な理解ができたという意見が多く寄せられました。また、アーツ・サイエンスやアーツ・サイエンスをめぐる大学の取り組みについてよくわかったという声も聞かれました。今後取り上げてほしいテーマに対しては、引き続きリベラル・アーツ教育に関するテーマを取り上げてほしいという意見を多く頂いています。それに加えて実際的なグローバルリーダー論について議論する場も求めていることが明らかになりました。
 講演内容に満足したとの回答が大半を占め、ヴァラエティー豊かな登壇者の組み合わせにより、アーツ・サイエンスについての理解が深まったと感じた参加者が多かったようです。アーツ・サイエンスへの関心は高く、引き続きこの分野での議論や大学の取り組みを知りたいという意見が寄せられました。

講演者に対する質問への回答について

11月20日の国際シンポジウムでは会場から様々な質問をいただきました。アカデミアにおける英語の役割やリベラル・アーツの理念についてなど、本質的で重要な問いを投げかけてくださった方もいます。質疑応答時間の制約上シンポジウム内でお答えできなかった質問のいくつかに対して登壇者の先生方から後ほどご回答いただきましたのでご紹介いたします。

質問1

学校教育における、アーツの不足をお話しされましたが、全く賛成です。それは受験システムにアート(芸術)科目が組み込まれていないというのもあると思います。イギリスでは、GCSEという統一テストの科目の中に美術とかちゃんと入っていて、生徒はそれに向けて作品を製作して提出し、ポイントを取ることができます。芸術に秀いでいることが、その人の才能の一つだと認識され、総合的に判断してもらえるという環境があります。また小学校などで、他の科目の成績が悪くても芸術的才能が認められる子供とかは、その才能があるという風に認められ、その才能を伸ばす指導が受けられたりするケースもあります。日本だと、主要科目ができないとあまり評価してもらえないのではないでしょうか?また、欧米にはシュタイナー教育を行う学校が多くあり、(日本でも数校ある)アートを通して、教育を行うというシステムを取り入れて、その卒業生が大学に進学し、素晴らしい生徒たちだと評価され、イギリス政府はシュタイナー教育に注目し、シュタイナー学校に補助金を出すことにしました。この例をなどを見ても、アートの教育への重要性が分かると思います。(当方、イギリスに留学して、みてきたことです)

回答

ご意見まことにありがとうございました。アートをどのように教育の中に取り入れてゆくかは、本当に重要な課題だと思います。イギリスの例とシュタイナー教育の例は大変参考になりますが、主要科目のみにウエイトがかかりすぎで、他のすばらしい才能の有無についての関心の低さは、将来の日本の創造性の問題に関わる重要なことだとも思います。私も微力を尽くして参りたいと思います。(青木保館長)

質問2

教養教育において「サービスラーニング」はどのように評価されていますか?またMOOCが利用している「反転授業」はどうでしょうか。

回答

私は「サービスラーニング」と「反転授業」は完全なオンライン授業として展開するのは難しいのではないかという印象を持っています。どちらも学生個人に対する指導と監督が必要であるため、オンラインだけでは適切に展開しづらいのではないでしょうか。例外はあるかもしれませんが、どちらの教授法もMOOCに含まれているという事例はこれまで聞いたことがありません。
(フランシス・ケアンクロス)

質問3

PPEや、グローバル市場と大学教育のコスト増について詳しく説明してくださりありがとうございます。しかしながら、講演内容と本日のシンポジウムのテーマである「アートとサイエンス」へのつながりがよく見えないように思います。「サイエンス」は(講演内容と)どのような関連があるのでしょうか。「アーツとサイエンス」の組み合わせについてどのように擁護されますか?

回答

ご質問ありがとうございます。また、シンポジウム内でお答えできなかったことをお詫び申し上げます。アーツとサイエンスを対にして、幅広い範囲を扱う大学の授業を説明するのは伝統的な方法だと思います。オックスフォード大学では古典ギリシャ哲学から情報科学まで様々な分野を学びに留学生がやってきます。一般的に古代ギリシャでは「アート」とは文法や論理学のみを含めた語ではなく、数学や天文学も指しました。多くのアメリカの大学でみられるようなリベラルアーツのコースもしばしば自然科学を含めています。(経営学や法学はその限りではありませんが。)
(フランシス・ケアンクロス氏)

質問4

示唆に富んだ非常に興味深いご発表、どうもありがとうございます。私からの質問ですが、大学の「エリート主義」的な特徴は、民主主義的な「開放性」と共存可能でしょうか。とりわけ、大学が人々を序列化する制度的システムとして機能している現状を踏まえてお答えいただけますか。

回答

これは非常に面白い質問だと思います。そして面白い質問が多くの場合そうであるように、単純に答えることができません。
私の意見では、最終的にエリート主義にどう向き合うかはある教育システムが機能する社会の価値観で決まると考えています。エリート主義は階級、カースト、経済状況、学識、権力、年齢などの 様々な形をとって現われます。開かれた民主主義においては高等教育を受けた卒業生が様々な種類のエリートの地位に就くこと、そしてその人それぞれの価値に基づいて社会的なエリートとして認められることが理想です。しかし残念ながらイギリスでは社会的流動性はこの10年間低下し、経済性と権力をもつ特権階級の維持を強固なものにしています。

イギリスでは高等教育の価値を、生涯収入を増やすことのみに見る考えがますます強くなってきています。最近の調査では大卒であるということから得られる収入の余剰分は、ローンをすべて払った後でも、少なくとも10万ポンドあると言われています。このように議論を経済的な方向に集中させることは「エリート性」に関する問題が経済力とお金の問題に矮小化されていることを示しているのだと思います。しかし、私の考えではこの状況が続くべきだとは思いません。このような経済的なエリート性だけに偏重しない、多様なエリート性が存在するバランスの取れた社会を考えることは可能です。よりバランスの取れたエリートとはどういったものかという議論をすること、また、よりよいエリート性が育つような制度を取り入れるという点で高等教育が機能することを願います。(カール・ゴンブリッジ氏)

質問5

日本の高等ではクロスカリキュラム(例:千葉県、岡山県)、教科間連携(例:埼玉県、川越女子高校)に取り組むところがあります。理科、例えば生物の教員と社会、例えば歴史の教育が関係のある内容を教えるときに、一緒に教壇に立ち、各々の教科からの見方を教えるというものです。英国の高校や大学ではこの様な取り組みはあるのでしょうか?あるとすれば、相互に先生方はどう声をかけられるのでしょうか?

回答

イギリスで似たような実験的な取り組みが行われているのは知っていますが、この分野についての私の知識は正式のものではないと言わざるを得ませんので、しっかりした研究結果としてではなく、雑談的なレベルで私の答えを受け取ってもらえたらと思います。
イギリスでは教育大臣が実施している学校教育改革について様々な議論がされている状況です。この改革はこの30年間で行き過ぎてしまったと考えられている「革新的」な教育に対して、より「伝統的」な教育を評価するものであると一般的に考えられています。革新的な教育は学際的な学習、生徒中心の教育、チームプロジェクトといったものを評価する傾向にあります。先ほどの「伝統的な観点」は一般的にそのような考えには反対です。以下のハリー・ウェッブやアンドリュー・ウォールドのウェブサイトを見てみるといいかもしれません。(日本語訳がないのが残念ですが!)

http://websofsubstance.wordpress.com/
http://teachingbattleground.wordpress.com/

イギリスでは彼らのような「新しい伝統主義者」の意見が政府に聞き入れられているとみていいと思います。イギリスのAレベルのシステム(16歳から18歳の間に3つの科目だけを学ぶ)では学際的な学びを提供するのは難しいという問題もあります。しかし、国際バカロレアの制度ではより簡単に実施できます(そして一般的に推奨されています)。

しかし、この新伝統主義の波とは反対に、多くの学校で既存の科目間の境界を乗り越えるような、そして時には境界をなくしてしまおうと努めるような、革新的なカリキュラムが用意されています。科学技術とアートのための国家基金のブログでは、デジタル技術を用いて学際的なアプローチに実験的に取り組んでいる例を見ることができます。

http://www.nesta.org.uk/blog/future-shock-new-movement-education

また、最近はバーミンガム(イギリスの2番目の都市)の学術的な学校と共同して生徒の興味のみに基づいてカリキュラムを作成しようとしている企業家に会いました。どのような興味であれ(たとえばペンギン、ラップミュージック、料理についてなど)生徒は自分たちの興味にそって学び、その学びが進んでいくにしたがって数学、地理、生物、プログラミングといった多様で異なる範囲の知識を習得していきます。

経験のある教師が生徒の成長を見守り、基礎的で重要な内容を学ぶことを保証しつつも生徒が自分の興味を追求できるようにすることは、もちろん理想的ではあるけれども、しかし、私の個人的な意見では、制度的に政府レベルまたは政策レベルで実行するのは難しいのではないかと考えています。

最善策はその間をとることでしょう。より幅広く学際的に思考する機会を与えず、生徒にAレベルで3つの教科のみとるように推奨するのは誤った判断で、多くの生徒にとって有害だと思いますが、すべての教科の境界をなくしてしまうことは、構造のないカリキュラムと、とりとめがなく混乱した思考を容易にもたらすように思います。インターネットは私たちの学び方を大きく変えていますが、すべての生徒が自分たちの学習を完全に管理し構成できると考えるのは非現実的でしょう。興味と能力があるならば、特定の学校や、学校の中でもある特定の生徒にそのような学習方法を許可することはできるかもしれませんが、そのほかの生徒にはよりしっかりした構成が必要ではないでしょうか。

教師間の協力についての質問は興味深いですね。イギリスには教師の集まりや小さなグループといったものが多くあります。イギリスと海外で集まる国際バカロレアのグループもいくつか存在し、学際的な学習について議論されているだろうと思います。しかしながら、私の知る限りでは、高校レベルにおける学際的な実践を共有することに限定された集まりというのはありません。(カール・ゴンブリッジ氏)

質問6

グローバル人材という言葉は日本で聞かれる言葉で、欧米ではそれに相当する言葉がない。これはなぜなのか?欧米でも近年同等の議論が盛んなのか?

回答

「グローバルリーダー」という言葉はヨーロッパとアメリカでも使われています。スイスのジュネーブで開催される世界経済フォーラムではヤング・グローバル・リーダー計画がありますし、アメリカでも非常に一般的な概念であり、「将来のグローバルリーダー」や「若きグローバルリーダー」といった表現が聞かれます。

しかし、この語の選択は誤解を生みかねません。それというのも「グローバルリーダー」という表現はオバマ大統領や彼のような世界のリーダーを指して使われることが多いからです。この言葉からはエリート主義で一般の人々を除外するような排外的な印象を受けます。私の出身地であるスウェーデンでは、平等や機会の均等といった概念が非常に重要だと考えられています。そのため私にとってある一つの特質だけを「将来のグローバルリーダー」の特質として優先させる考えはなじみがなく、政治的にも社会的にも受け入れづらいものです。

ただ、もちろん日本ではこの語はオバマや彼のような世界的なリーダーを指すのではなく、グローバルな舞台で自らの社会の改善のために新たな方法や考え方へのインスピレーションを得る人たちのことを指しています。日本語の「国際人材」という表現は英語では “international human resources” (国際的な人的資源)とも訳すことができますね。

それでは、西欧諸国では、日本でいう「国際人材」という意味合いで「グローバルリーダー」についての議論がされているでしょうか。国際的な交友関係や経験、国際交流を将来の問題を解決するために有益で必要なものだと考えているでしょうか。若者たちをここでいう「グローバルリーダー」になるように教育しているでしょうか。

その答えはイエスとノーのどちらも含むでしょう。国際化はヨーロッパの生活に自然な一部となっています。EU内での移動は自由で、人々、特に若者は活発に移動しています。さらに若者は国内や海外で様々な仕事をしてお金を貯め、1年か2年世界を旅して過ごすこともごく普通に行われています。このような旅は一般的に大学での勉強を始める前にされるものです。ヨーロッパへの移住は広範囲に活発になされていて様々な経験や知識を持った人々が集まっています。

そのため常に社会に新たな価値観が導入され、社会の様々な側面について現在進行形で再定義が進んでいるといえるでしょう。その意味では「将来のグローバルリーダー」が自然に育つ土台があると言えます。

しかし、ヨーロッパは「グローバル」な環境が提供する利点を制度的に活用できていません。雇用者は若者の国際的な経験を価値のあるものとして認識することはほとんどありませんし、国際的な経験を価値化する制度もありません。繰り返しますが、ヨーロッパでは移民を通じてもたらされた新しく多様な状況をどのように活用するかが難しい問題として存在するのです。加えて「国際人材」へと若者を体系的に教育する機会はほとんどありません。この概念は広く議論されていないからです。

もちろんこの点は残念だと思います。価値化や教育を通じて意識的に「グローバル」な環境を奨励することは可能でしょうが、まだ実行されていません。

そのためあなたの質問に対する私の答えとしては、「グローバルリーダー」の概念自体は存在するが、体系的に議論はされていない、ということになります。 (ジョージ・ノヴァキー)

質問7

ご講演をお聞きし、大学を取りまく環境の変化や産業界などからの期待などからもますます教養教育の重要性が高まっていると実感しました。教養教育改革を進めていくには、全学の教職員や学部の理解や協力を得る必要がありますが、これが難しい点の一つでもあります。また、学生にも学ぶ姿勢を持ち、大学教育の主体者であるという意識をも持ってもらうことも大切です。多くの教職員や学生を巻き込んで居幾改革をするために何か感じられることやお考えあるいは実践事例などがあればお聞かせください。

回答

私はヨーロッパと中央アジアで高等教育改革に携わってきました。私の経験では高等教育を改革するにあたって一番大きな障害となるのは教員たちです。学生はすぐに改革の利点を理解してくれます。例えばチューニング・ヨーロッパを実行したときには学生は非常に協力的で、何を学ぶか、どこで学ぶか、どの国で働くかといった問題において、透明化され比較・交換可能な研究・学習が必要であることをすぐに理解してくれました。

そのためどのような高等教育改革を実行するのであれ、学生が改革に参加することはとても大切になってきます。結局は彼らの将来に関わることなのですから。国や地域によってどのように学生を改革過程に参加させるかは異なりますが、ヨーロッパでは高等教育におけるすべての意思決定と実行に学生が関わっています(または関わるべきです)。どのように組織的または構造的に学生参加が組み込まれているかは国ごとまたは大学ごとに異なります。

私が以前所属していたスウェーデンの大学の例を挙げてみます。学生は学部、教務部、そして大学レベルのすべての意思決定に正式に参加します。そのため学生は何かしらの変化があるときには(教育についてのみではなく)すべてのレベルにおいて常に投票権と発言権を持ちます。学生の代表権が最も重要な意味を持つのは学部とプログラムのレベルにおいてであり、学生たちは自分たちのプログラムを承認し、作成し、そして評価することに参加します。学生の要求によってプログラムを変更することはごく一般的です。加えて試験の時に配られる質問票によってプログラムのすべての要素は常に評価されます。このような方法によって学生参加を確実にすることができます。

しかし、学生を参加させることは一筋縄ではいかないこともあるでしょう。ほかの学生を代表してもらう代わりに特別な学術単位を与えたり、私が実際に行ったように、正式な書類や証書を与えたりすることで学生はこの経験を履歴書に書くことができるようになります。学生に積極的な役割を与えるためにはこのようにいろいろな方法が考えられるでしょう。彼らの意見が真剣に扱われ考慮されていると気づくことができると、学生にとって良い動機になります。

教員はまた違う問題があります。一国の中でも教授団の文化というのは大きく違いがあるでしょう。研究と教育のバランスをどうとるかは難しい点ですが、少なくとも私の経験では大学は教育に十分な価値を置いていないように思います。ヨーロッパでは政府によって改革が決められたので教員は従わなければいけませんでした。しかしそのような制限がなければ研究に取り組む機会を増やすわけではない改革について、学術的な教員が協力することは難しかったでしょう。

ボローニャプロセスが実施されたとき教員は新しい規則に従って授業(プログラムの中の自らの担当)を決めなくてはなりませんでした。そして教授方法と全体のプログラム構成も調整しなければなりませんでした。教授法は評価され、大学は教員を支援するために教授法のコースを設けました。この一連の変化は多くの教員にとって非常に辛いものでした。

私たちは改革の導入を若手の教員から始めました。若い教員は経験も少なく教育者としての役割についてまだ確信が持てていないこともあり、支援を受けることに積極的でした。より年配の教員には段階的に改革プロセスを紹介していきました。

この取り組みの結果は様々な利点をもたらしました。例えば、チームワークについて:プログラムについて議論し、新たな方法論を見つけ、お互いの考えを共有するするチームを教員間で作りました。継続性について:年配の教員は改革過程の一翼を担いながらも教育制度の中で従来の方法を継続することができました。新しい考え方が導入されましたが、従来の考え方すべてに問題があるわけではないので、若い世代に彼らの知識と経験を共有してくれました。年配の教員はこのことをとても楽しんでいたようです。質について:教員間で議論し、考えを共有し、そしてプログラムの構成に適合するように教育方法を調整することで、ほとんど自動的に教育の質は向上しました。また、これによりすべての教員の仕事に対する満足度が向上しました。

しかし、構造的な問題は残っています。教育は時間がかかりますし、改革を導入することも時間がかかりますが、教員は時間的余裕がありません。教育は教員の学術的なキャリアにおいて十分に評価されているとも言えません。残念ながら私はこの構造的問題についてはお答えすることができません。(ジョージ・ノヴァキー)