一橋大学の母体となった商法講習所の創設者
森 有礼
【1847(弘化4)~1889(明治22)年】
東洋文化協会(1934)
「幕末・明治・大正 回顧八十年史」より
明治初期弁務使として米国に駐在 わが国に商業教育を速やかに育成することの必要を感じ講習所講師として米国人ウイリアム・ホイットニーを招く
明治十八年東京商業学校々務監督となり校長矢野二郎を援助した
薩摩藩士 若くして英国に学び明六社々長としてわが国近代化に盡す 駐清駐英公使を経て明治十八年初代文部大臣となる 果断剛直の人であった
明治二十二年逝去 享年四十二歳
撰文 澁澤輝二郎氏
昭和五十八年六月
森有礼にまつわるエッセイ
イ・ヨンスク 孤独な言語思想家、森有礼
森有礼の自警
文部省は全国の教育学問に関する行政の大権を有してその任ずるところの責したがいて至重なり しかれば省務をつかさどる者はすべからく専心鋭意各その責を尽くして以て学政官吏たるの任を全うせざる可からず しかしてこれを為すには明かに学政官吏の何ものたるをわきまえ決して他職官吏の務方を顧みこれに比準を取るが如きことなく一向に省務の整理上進を謀りもしその進みたるもいやしくもこれに安せずいよいよ謀りいよいよ進め 終に以てその職に死するの精神覚悟せるを要す
明治十九年一月 有礼自記
解釈
文部省は、全国の教育学問に関する行政の大権を有しているので、その責任は大変に重いものである。
したがって、文部省の職務を担当する者は、専心鋭意その責任を尽くして、学問をつかさどる行政官吏の任をまっとうしなければいけない。そしてそのためには、学問をつかさどる行政官吏であることをわきまえ、決して他の官吏と比べることはせず、ひたすら文部省の職務に熟達することを計り、ある程度になったからといっても満足しないで、もっと上に進むよう努力し、最後にはその職に死んでもいいくらいの精神を自覚することが必要である。
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